はじめに:「Pat、君はまだ書き足りない」
Turing賞を受賞し、分散データベースや高可用性システムの基礎を築いた偉大な計算機科学者Jim Grayは、タンデムやMicrosoftで分散システムを牽引した盟友Pat Hellandと会うたびに、20年間こう言い続けたといいます。
「Pat、君はまだ書き足りない(Pat, you’re not writing enough)」
「エンジニアの本分は動くコードを書くことであり、文章を書くのは広報やマーケティングの仕事だ」——現場で忙しく開発していると、ついそう考えてしまいがちです。
しかし、超高速NoSQLデータベースScyllaDBのコアエンジニアであるPiotr Sarnaと、テクニカルライターのCynthia Dunlopによる書籍『Writing for Developers - Blogs that get read』は、その常識を心地よく覆してくれます。
本書の第1章「Why write(なぜ書くのか)」では、文章を書くことが単なるアウトプットにとどまらず、「プログラミング能力そのものを引き上げ、チームの生産性を高め、キャリアを切り拓く最強のレバレッジ」であることが、著者自身のリアルな体験とともに語られています。
本記事では、その第1章の要点を整理し、忙しいエンジニアが今日からブログを書きたくなる理由と、よくある「書けない言い訳」への処方箋をわかりやすくお届けします。
理由1:自分のコードを「本当の意味で」理解できる
「コードは動いているけれど、なぜその書き方にしたのか他人にうまく説明できない」という経験はありませんか?
誰かに技術や設計を説明しようとするとき、私たちは頭の中で思考を自然言語に翻訳しなければなりません。このプロセスこそが、最高のコード検証(ラバーダック・デバッグの発展形)になります。
文章化することで初めて気づくこと
記事を書こうとキーボードを叩いていると、次のような疑問が自然と湧き上がってきます。
- 「なぜこのライブラリを選んだのか?他の選択肢と何が違ったのか?」
- 「この分岐を入れないと、どんなコーナーケースで破綻するのか?」
- 「そもそも、自分は何を前提にしてこの設計にしたのか?」
他人に読んでもらう文章を書こうとすると、自分の頭の中にあった「無意識の思い込み」や「論理の飛躍」がくっきりと浮き彫りになります。
著者自身も、ScyllaDBで新機能を実装した後にブログを書いたことで、「自分がコーナーケースを見落としていたこと」や「もっとシンプルな実装方針があったこと」に何度も気づかされたと語っています。
文章を書くことは、実装が終わった後の単なるオマケではありません。自分の理解度を試し、コードの品質を高める開発サイクルの一環なのです。
理由2:同じ説明を繰り返す苦痛から解放される
開発現場で、次のようなシチュエーションに心当たりはないでしょうか。
- 新しくチームに入ってきたメンバーから、過去の設計理由を何度もSlackやミーティングで聞かれる
- 数か月前に自分が書いたコードなのに、なぜその実装にしたのか思い出せず、調査に半日潰れる
- 別のチームから同じような技術的な質問が何度も飛んできて、そのたびに個別に返信している
どんなに優れたコードでも、「なぜその設計にしたのか(Why)」という背景やトレードオフはコード自体からは読み取れません。
URLを1本渡すだけで全員の時間が浮く
設計の背景や技術選定の理由をブログ記事やドキュメントにまとめておけば、同じ質問を受けたときにこう言うだけで済みます。
「その件の経緯と設計判断は、この記事に全部まとめてあるので読んでみてください!」
これだけで、自分自身が何度も同じ説明を口頭やチャットで繰り返す時間をゼロにできます。質問した相手も、まとまったドキュメントで全体像を素早くキャッチアップでき、お互いにストレスがありません。
自分が将来そのプロジェクトを離れたり転職したりした後でも、残された記事がチームのオンボーディング資産として機能し続けます。
理由3:世界規模の「無料のコードレビュー」が受けられる
社内のコードレビューは非常に大切ですが、どうしても限界があります。同じチームで同じ前提を共有している少人数のメンバー同士だと、特定の環境におけるエッジケースや潜在的な課題を見落としてしまいがちです。
技術ブログを公開するということは、世界中の優秀なエンジニアに向けて「オープンな査読」をお願いするようなものです。
辛口なコメントの中に「宝物」がある
Hacker NewsやSNS、技術コミュニティに記事を公開すると、ときには手厳しいコメントや指摘がつくことがあります。
しかし著者は、「そうした批判の中にこそ、自分では絶対に思いつかなかった貴重な改善提案が混ざっている」と強調します。特定のOS環境での挙動や、最新の言語仕様、思いもよらなかった最適化手法を、見知らぬエンジニアが親切に(ときには少しぶっきらぼうに)教えてくれるのです。
指摘を受けたら素直にコードを修正し、記事に「【追記・正誤表】読者の方からのご指摘により改善しました」と書き足せばよいだけです。間違いを恐れて隠す人よりも、オープンに学んで改善できるエンジニアの方が、圧倒的なスピードで成長していきます。
理由4:キャリアの可能性が劇的に広がる
履歴書や職務経歴書に「扱える技術:Go, Kubernetes, AWS」と並べるだけなら、誰でもできます。採用担当者やチームリーダーにとって、それらのキーワードが「本物の深い経験」なのか「チュートリアルを触った程度」なのかを判断するのは困難です。
1本の良質な記事は、100行のスキル一覧に勝る
もし履歴書に、「自分が直面した技術課題と、それをどう試行錯誤して解決したか」を丁寧に解説したブログ記事のリンクが1本添えられていたらどうでしょうか。
- どのような思考プロセスで課題にアプローチする人物なのか
- 複雑な技術を他人にわかりやすく伝えるコミュニケーション力があるか
- 自分の仕事に対してどれだけ熱意と誇りを持っているか
これらが一目で伝わります。
書籍でも、ブログ記事をきっかけに勉強会やカンファレンスへの登壇依頼が届いたり、スタートアップのCTOから直接声がかかったりした事例が数多く紹介されています。「〇〇について面白い記事を書いていた人」として認知されることが、エンジニアとしての強いパーソナルブランドになっていきます。
よくある「書かない言い訳」を乗り越える3つのヒント
ブログを書くメリットが分かっていても、いざ書こうとするとペンが止まってしまうものです。第1章の後半では、多くのエンジニアが抱える「書かない言い訳」に対する現実的なアドバイスが提示されています。
1. 「文章力や英語力に自信がない」
読者が求めているのは、小説のような美しい文体や洗練された文法ではありません。「技術的な事実が正確であること」「自分と同じようなトラブルにどう対処したか」です。文章が少し無骨でも、内容が実践的であれば読者は大いに感謝してくれます。
2. 「忙しくて時間がない」
何日も缶詰になって大作を書こうとする必要はありません。
- コードのコンパイルやCIのテストを待っている5分間
- キャンセルになったミーティングの空き時間
- 今日のタスクでつまずいたエラーメッセージと解決策のメモ
こうしたスキマ時間に少しずつ書き溜めておくだけで、数日後には立派な記事の骨組みが完成します。
3. 「プロジェクトがまだ完成していない」
「プロダクションリリースして完璧に成功してから書こう」と思っていると、いつまでも公開できません。 むしろ、「開発の途中で直面した技術選定の悩み」「ボツになったアイデアとその理由」「ハマり倒したバグのデバッグ記録」のほうが、同じ境遇にあるエンジニアにとって何倍も価値があります。
おわりに:まずは「過去の自分」に向けて書いてみよう
ブログを書くとき、世界中の何万人もの人々を意識する必要はありません。
一番おすすめなのは、「先週、この問題で丸1日悩んでいた自分」に向けて書くことです。
「あのとき、この情報がまとまっていればどれだけ助かったか」と思える内容なら、世界中のどこかで同じように悩んでいる誰かにとって、間違いなく最高の道標になります。
ぜひ、今日解決した小さな課題や学んだティップスを、1本の記事として言葉にしてみてはいかがでしょうか。その積み重ねが、あなた自身のプログラミング人生を確実に豊かにしてくれます。